初めて聴く歌声、初めて耳にするメロディー、そして初めて接する言葉たち。アルバムには、『Seeds To Grow』という表紙がつけられ、そこには9つの歌が収まっている。

 いつものことだが、こうやって新しい出会いについてあれやこれやと想像するときほど楽しいことはない。中村まりという人はどういう人なんだろう、どういう歌声で見知らぬ世界にぼくを連れて行ってくれるのだろうか、と。生楽器が奏でる清々しい響きと一緒に、凛と強い歌声が流れでてきた。ひんやりした空気を震わせるように流れでてきた。良く晴れた冬の朝が似合いそうな歌声だ。朝露を溶かす光りの中で言葉たちが揺れ、音たちが弾み、それが歌になっていく。しかもそれは、雪に覆われることがあっても萎れることなく、しっかりと寒さを耐えぬき、春がくればまた小さな芽をだして育っていく、そういうつつましい強さを秘めた歌だ。

 アコースティック・ギター、ハーモニカ、マンドリン、ドラムス、ベース、ドブロ、スライド・ギター、曲によってはトロンボーンやクラリネットが加わることもある。それらは、歌を着飾るというよりは、言葉たちが、歌われるという行為にどうしても必要だから仲間に引き寄せたかのようにさえ思われる、だから、楽器たちも歌っている。

 少し懐かしさが込みあげてきた。野原をそよぐ風の匂いがはなさきをかすめ、小川のせせらぎが耳もとで戯れ、幼い頃に遊び疲れて帰宅する際に見上げた大きな夕焼けがぼくの脳裏に映し出される。この人の幼い頃を想像してみたくなった。歌の向こうから坂を降りてくる少女の足音をききながら、この人はどんな夜をくぐり抜け、どんな朝を迎えてきたのだろうか、と。手元の資料には10代の4年間ほどを米国のオハイオ州で過ごしたとあった。すべて英語で歌われているのは、そのせいだろうか。ぼくは55年も日本語を使っているのに、まだ、歌ひとつ書けないでいる。いつかお会いすることがあったなら、その理由をきいてみたいなと思う。

 むろん、歌がそれを欲しているのなら、日本語だろうと英語だろうと問題ではない。確かなのは、どんな言語で歌われようと、体裁を取り繕っただけの歌、みせかけの歌や借り物の歌はすぐに飽きられるということ、それだけだ。この人の歌には、少なくともだらしない言葉遣いがない。世間に埋もれることを拒み、歌だけが存在する穏やかで澱みのない空間をぼくの身近にもたらそうとする。歌いたいことを抱える人がいて、歌われたいと願う歌があり、それを聴きたいと思う人がいる。いまいちばん必要とされている関係をこれから築こうとする意志が、その歌声や演奏から感じられる。

 むやみやたらと大きな声をださなくとも、大袈裟な言葉や楽器を使わずとも、歌は届く。音楽が聴き手を揺り動かす大きさや深さは、それらとはまったく別のところにあるのだと実感させられるような音楽でもある。作為に満ちた歌がはびこる世の中で、例えば、家族のこと、友人のこと、恋人のこと、身近な人たちのことをきちんと考え、自分自身と向き合い、少しでもいいから足下から光りを伸ばしていく。日常から少し奥に踏み込んだときに初めて出会える労りや優しさのような感情と、この人の声が重る瞬間、そこにぼくは歌という実りをいちばん強く感じる。

 去年の大晦日、東京では珍しく雪が舞った。その雪が家の近くの木々や道ばたに微かに残っている新しい年の最初の朝、『Seeds To Grow』を聴きながら、ぼくは真新しいカレンダーを一枚めくったGrow to the sun,to the sun From the ground,to the sun,to the sun 〜と歌が弾み、そのとき一緒に、焦らず、慌てずにと、何処かから声がきこえてきた、ような気がした。

天辰 保文


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